1985年8月12日の夕方、日本航空の羽田発大阪行きの123便の圧力隔壁が吹き飛び、垂直尾翼が破損し、ジャンボB747は、コントロール不能になりました。
機長の高度な操縦技術でダッチロールを繰り返しながらも、30分以上飛行を続けましたが、群馬県上野村の御巣鷹山に激突してしまいました。
乗務員、乗客は、524名。うち520名が死亡、奇跡的に4名が助かりました。
生存者の1人、当時12歳の川上慶子さんが、隊員に抱えられながら自衛隊のヘリコプターで救助される写真が紹介され、今でも目に焼き付いています。
当時、私は20代でしたので、鮮明に記憶に残っています。あれから今年で31年にもなるんですね・・・・。
事故に巻き込まれた有名人として、「スキヤキ(上を向いて歩こう)」で国際的な歌手となった、坂本九さん43歳がいましたね。
亡くなった520名の中には、タレントの吹田明日香さん(当時21歳)のお母さんもいたそうです。
吹田明日香さんは、1983年に歌手デビューし芸能界2年目の時。何枚かレコードをリリースして、これからという時のお母さんの事故だったようです。
吹田さんは、現在は情報番組のリポーターなどで活躍していますが、お母さんをなくした1985年から1990年まで空白の時間があります。
吹田さんは、私たちと同世代の52歳。ともに同じ時代の中を生きてきました。人生も半ばを過ぎ、人生についていろいろ考え語れる年代になりました。
吹田さんは、当時何を思っていらっしゃったんでしょう・・・。今だから話せる心の葛藤を、TBS「爆報!THEフライデー」【大事故に巻き込まれた芸能人】で話されてました。
遺族しか知らない壮絶な事故現場
吹田明日香さんは、スター誕生のグランドチャンピオンになり18歳で歌手デビュー、アイドルとして順調に実績を積んでいた21歳の時、悲劇がおこりました。
事故の前日、吹田さんは休みで大阪の実家に帰省してましたが、逆にお母さんは所要があり東京にいたそうです。
事故当日、吹田さんは親戚の家でいとこの誕生日を祝っていたところ突然電話があり、お母さんが事故に巻き込まれた可能性を知らされます。
急いで、テレビをつけ確認してみると搭乗者名簿の中に、お母さんの名前がありました。
事故発生から16時間後、搭乗者の家族のために用意されたバスで、父と一緒に御巣鷹山に向いました。
現場に向かい途中に生存者発見のニュースがあり、バスの中は家族たちは大喜びしたそうです。しかし、すぐに悲しい現実を突き付けられることになります。
遺族たちは、猛暑の中現地の小学校の体育館の中で、ひたすら家族の発見を待つしかありませんでした。
近くのホテルにとまり、毎日繰り返される遺体確認。それでもお母さんが「生きていること」を信じて待ち続けていたそうです。
遺体発見の知らせがあるたびに、身元確認を強いられます。自分の肉親をさがすためは、他の人の遺体を確認せざるを得ません。
事故から5日後、「40代の主婦でエメラルドの指輪をした女性に心あたりの方は・・」との呼び出しがあり、父が確認に出かけました。
その女性は、母でした。全身は包帯で巻かれてましたが、エメラルドの指輪と荷物で母であることが確認できたそうです。
家族を失った悲しみと、遺体確認で心に大きな傷を負った遺族の苦しみは、以後の人生に大きな影響を与えました。
3人の子供を亡くした男性はアルコール依存症に、息子家族を亡くした女性は言語障害になり心労で2年後に亡くなったそうです。
大切な人を亡くした自分だから伝えられることがある
吹田さんは、あまりの衝撃から仕事ができなくなり、すべてキャンセルし大阪の家にこもっていたそうです。
毎日黒い服に身を包んで、遺影の前で泣きお墓の前で泣き・・・「死んでしまいたい」とさえ思いました。
そんな吹田さんに、ある時「いつまでウジウジしているの!根性をだしなさい」という母からの電話があったそうです。
それは、単に自分の思い込みだったかもしれないと吹田さんはいいます。
しかし、その電話をきっかけに吹田さんは立ち直ります。一時休学していた同志社大学に復学し卒業。
その後、吹田さんはリポータとして芸能界に復帰します。社会でおきている現実を、自分の口で伝えたいと思ったからだそうです。
地下鉄サリン事件、阪神淡路大地震、次々と起こる事故や事件。「大切な人を亡くした自分だから、伝えられることがある」そう思って現場からリポートしました。
事故から31年たち「忘れてしまいがちだけど忘れてほしくない事故、そして二度と事故が起きないでほしい」という強い思いから、話すことを決断したそうです。
今、吹田さんは、お母さんの年齢を超え、自分の家族を持っています。だからこそ、話せるようになったかもしれませんね。