町亞聖(まちあせい)さん、目がぱっちりして笑顔の素敵な方ですよね。目鼻立ちのくっきりした顔立ちと、亞聖という名前のせいで、よくハーフと間違えられていたそうです。

町さんは、埼玉県の浦和出身で、立教大学卒業後だれもが羨む日本テレビのアナウンサーになりました。

アナウンサーといえば、お嬢様や帰国子女の方が多いですが、町さんは大学時代から就職した後まで、ずーっと母親の介護を背負っての人生でだったようです。

そんな町さんの人生は、「十八歳からの十年介護」(武田ランダムハウスジャパン)、「十年介護」(小学館文庫)として出版されています。

10年介護

高校3年に母親がくも膜下出血に

町さんは、与論島出身の父と福岡出身の母との間に、長女として1971年に誕生しました。下に、弟、妹がいる5人家族です。

幸せな家族に悲劇が起こったのが、町さんが高校3年生の時。突然、お母さんがくも膜下出血で倒れました。

一時は心臓も止まり、生死の境をさまよったそうですが、なんとか一命をとりとめした。

しかし、お母さんには、言語障害、右半身マヒという重い後遺症が残り、以降介護の必要な体になってしまいました。

当時、町さんは18歳、弟は中学3年の15歳、妹は、まだ小学6年の11歳だったそうです。

共働きだった町さん家族は、お母さんの収入がなくなり、さらに医療費や介護費用などの出費で火の車状態だったそうです。

町さんは、就職して母の介護を続けようと思いましたが、お父さんの強いススメで大学に進学したそうです。

母の介護、弟、妹の世話、家の家事一切を抱えての大学生活がスタートしました。

あこがれのアナウンサー職と介護人生

就活では、超難関を突破し小学校から憧れていた日本テレビのアナウンサーになることができました。

アナウンサー職は、番組時間により出勤時間が違うため昼に家にいることもできたため、母の介護を続けることができたといいます。

しかし、仕事も軌道にのり生活がようようやく安定した頃、お母さんが突然食事中に出血してしまいます。

病院で検査した結果は、末期の子宮頸がんだったそうです。お母さんは、1年半の闘病のあと亡くなりました。

また、お父さんにも胃がんが見つかり、お母さんが亡くなってから6年後に後を追うように亡くなったそうです。

日本テレビ退社しフリーアナウンサーに

町さんが29歳のとき、突然アナウサーから制作への異動を告げられました。局側では、町さんの企画力や介護の知識など、他の能力を開花させるつもりだったそうですが、町さんにはとてもつらい異動でした。

町さんは、新しい制作の現場でなんとか頑張ってきましたが、華やかなアナウンサーの現場とのあまりの違いに追い詰められ、ついには「うつ」になってしまったそうです。

そして、異動から10年目の39歳のとき、日本テレビ退職を決意し辞表を提出します。その時にとても力になったのが、アナウンサー時代に一緒に番組をしていた、峰竜太さんの「町さんなら大丈夫」という言葉だったそうです。

峰さんは、町さんの介護生活を知っている数少ない芸能人の一人で、お母さんの葬儀のとき唯一参列してくれた芸能界の人だったそうです。

「町さんなら大丈夫」辛いときはその言葉をいつも思い出しながら立ち直り、今は、フリーアナウンサーとして活躍しています。

「介護をしている人を救う言葉は、なにも難しい言葉ではなく『大丈夫』の一言でいいんです。」と町さんはいいます。

心が弱っているときに、必要なのは本当に「大丈夫」の一言。その一言があれば、人は自分を支えて生きれるんですね。

情報参照元:
「十年介護」(小学館文庫)

TBS「爆報!THEフライデー」1月29日放送
「元日本テレビアナウンサー 町亞聖 母親の介護映像をテレビで初めて公開。 華やかな生活の裏で、10年に及ぶ介護生活をしていた!さらに、アナウンサー職も失っていた! うつ状態の町を救った大物タレントMとは…!?」で紹介されました。