女性アイドルグループAKB48のメンバーだった、篠田麻里子さん31歳。2013年7月AKB48を卒業後も、ドラマ、映画、舞台などで大活躍しています。

AKB時代の愛称は「まりこ様」。抜群のプロポーションと感性をいかして、モデル、ドラマ、声優、ファッションプロデューサーと活躍の場を拡げてきました。

そんな麻里子さんのパワーの源はどこにあるのでしょうか?NHK「ファミリーヒストリー」では、篠田ファミリーのルーツを探ります。

女手1つで父を育てあげた祖母絹江さん

麻里子さんは、1986年3月11日、海上保安庁に勤める裕典さんと母光子さんの長女として生まれます。

糸島市

篠田家のルーツを辿っていくと、父方のおばあさんである絹枝さんに、壮絶な人生のドラマがありました。

実は、絹江さんは結婚して5年で夫を亡くし、女手一つで麻里子さんの父、裕典さんを育てたのです。

母子家庭ながら懸命に働く絹枝さんに、トラブルが起こります。仕事の最中に指を失う大怪我をしてしまうのです。

それでも、弱音を吐くことなく、裕典さんを育てるため働き続けました。そこには、亡き夫との固い約束がありました。

熊本、旧満州、蒙古と、大戦の大きな波にもまれながらも決死の覚悟で生き抜いてきた、篠田ファミリーの歴史を追います。

篠田麻里子さんのファミリーヒストリー

麻里子さんの父裕典さんは、海上保安官です。

裕典さんは、2歳の時に父を亡くしたため、篠田家の先祖のことはほとんど知らないそうです。

●篠田家の家系
曽祖父芳雄=祖父英智=父裕典=麻里子

曽祖父は腕利きのカメラマン

明治41年に生まれた曽祖父芳雄さんは、新聞社から撮影を請け負う契約カメラマンでした。

昭和4年に開かれた九州1周自動車競走では、専属カメラマンにも選ばれたほどの腕前でした。

昭和6年には天皇が参加する陸軍特別大演習の撮影も担当していたようです。

芳雄さんは、九州日日新聞で知り合った甲斐久子さんと結婚、祖父曽となる英智さんが誕生します。

しかし、契約カメラマンの収入が不安定のため、単身満州にわたり炭鉱会社の事務員となります。

生活が軌道にのったら家族を呼び寄せるつもりでしたが、妻久子さんが24歳の若さで亡くなってしまいます。

幼い英智さんは、熊本に住む母に預けられました。芳雄さんは、その後蒙古の張家口で政府の役人となります。

芳雄さんは蒙古で再婚し収入も安定したため、英智さんを呼び寄せ3人の生活をはじめます。

昭和20年8月15日終戦を迎えますが、蒙古にソ連軍が攻めてきて戦闘になります。

芳雄さん家族は何とか逃げ切り、昭和20年12月、3人は故郷熊本に無事戻ることができました。

祖父英智さんは29歳の若さで死去

知智さんは、ハンサムでおとなしい人だったそうです。

高校卒業後に市役所勤務を目指したのですが、就職難のため夢はかないませんでした。

そこで近所のつくだ煮屋で働きながら、再び市役所採用を目指して勉強をはじめます。

そこで吉岡妙子さんと知り合い意気投合、結婚の約束をしますが、その数ケ月後なんと妙子さんは突然心臓病で亡くなってしまいます。

それから2年後、妙子さんの妹である絹江さん(麻里子さんの祖母)が英智さんへ嫁ぐという話が、篠田家と吉岡家の間で進んでいました。

絹江さんは嫌で、家を飛び出し1週間逃避行をしたそうです。しかし、昭和29年、2人は結婚することになります。

結婚してみると、英智さんはご飯を作ってくれたり、寒い日には火鉢に火を起こしてくれるとてもやさしい人だったそうです。

昭和32年、2人の間に裕典さん(麻里子さんの父)が生まれます。3人で幸せな生活を送っていましたが、突然英智さんが倒れてしまいます。

昭和34年、英智さんは急性リウマチ熱のため29歳の若さで亡くなってしまいます。絹江さんとの結婚生活は、わずか5年でした。

祖父絹江さんの懸命の子育て

絹江さんは兄夫婦に裕典さんを預け、給料の良い鉄工所で働きはじめます。子供を育てるための選択でした。

働きはじめて5年目、絹江さんにアクシデントが起こります。上司と鉄板の切断作業をしていたとき、人差し指と中指を誤って切断してしまいます。

その後、絹江さんは青果市場に職を変え、男性と同じ力仕事をしながら息子裕典さんを育てます。

船乗りを目指す父裕典さん

裕典さんは、大好きな船乗りになるため中学卒業後、国立の商船高等専門学校に入学します。

学校は愛媛にあり全寮制であったため、母絹江さんと別れることになります。

絹江さんは、裕典さんのために懸命に働き仕送りを続けます。給料の半分は裕典さんに送り、残りのわずかなお金で生活していたそうです。

昭和53年、裕典さんは高専を卒業しますが、当時オイルショックのため船乗りにはなれませんでした。

そこで船の積み荷を扱う東京の倉庫会社に就職します。そこで知り合ったのが、神山光子さん(麻里子さんの母)です。

光子さんは、スタイルがよく背もすらっとしていて、小さいころから近所でも評判の子だったそうです。

昭和56年二人は結婚します。裕典さんは、自分の船乗りの夢を実現させるため、海上保安庁の試験を受け見事合格します。

長男が生まれ、昭和61年には、長女麻里子さんが誕生します。

絹江さんは、仕事柄転勤の多い裕典さんに「決して単身赴任をせず必ず家族と一緒に生活するように」と伝えます。

裕典さんは、神奈川、青森、長崎、沖縄と転勤しますが、転勤先には必ず家族を連れていきました。

親に内緒で受けたAKB48

麻里子さんは小学校の頃から、歌とダンスが大好きでした。そして高校卒業後挑戦したのが、AKB48 第一期生のオーディションでした。

両親には何も告げず、一人で東京にきて試験を受けたそうです。結果は不合格。あきらめきれない麻里子さんは、劇場のカフェでアルバイトをしながら一生懸命に働きました。

その姿がファンに認められ、みごとAKB48 のメンバーとなりました。

平成25年、麻里子さんはAKB48 を卒業、その後ドラマや舞台などに挑戦を続けています。

祖母絹江さんは、今回の取材で初めて語ったことがあります。それは20代の頃から右目の視力を失なっていたことです。

指を落とし視力を失いながら、懸命に裕典さんを育てた絹江さん。

平成20年、絹江さんは夫英智さんの50回忌を営みました。

絹江さんの結婚生活はわずか5年でしたが、亡き夫への思いをずっと持ち続けています。

そして、亡くなった夫英智さんに毎日手を合わせ、麻里子さんの活躍を報告し「見守ってね」とお祈りしているそうです。

麻里子さんは、「祖母や温かい両親、家庭に恵まれたおかげで、今があることにとても感謝しています」と涙を浮かべ語ってました。