毎日のようにテレビに出演しているIKKOさん。「オネエタレント」と間違いそうですが、知る人ぞ知る日本のトップヘアメイクアーティストです。

メイク道具

テレビCM、舞台、雑誌等のヘアメイクとして大活躍。特に、和装のヘアメイクでは多くの女優さんから絶大なる支持を受けています。

IKKOさんの肩書は、ヘアメイクアーティスト、メイクアップアーティスト、ビューティーディレクション、タレント。最近は、エッセーなどの文筆業、書家としても活躍しています。

IKKOさんといえば、人差し指を左右に振る『どんだけ~』が有名ですよね。

明るいキャラクター、頑張り屋、面倒見の良さ、そして涙もろい一面などが、IKKOさんが皆んなから愛される理由です。

そんなIKKOさんは、少年時代から女性の心を持っていたがために、かなり複雑だったようです。

美容院の実家と、IKKOさんと父との葛藤

IKKOさんの本名は、豊田 一幸さん。1962年1月20日、福岡県田川郡方城町(現在の福智町)に生まれました。

「イッコー(IKKO)」の名の由来は、本名の「かずゆき」の音読みです。

田川郡方城町は、福岡県福岡市より約45kmの内陸部にある人口2万2000人ほどの小さな町です。

かつては方城炭鉱の産炭地として栄えていました。IKKOさんの実家は、その福智町で60年間、美容院を営んでいます。

一幸さんは、小さい頃から女性の心を持つやさしい少年でしたが、父にはそんな気持ちをまったく理解できませんでした。

豊田家の長男として男らしく育てたい父と、女性と遊ぶのが大好きだった一幸さん。その気持ちのズレが二人の関係を遠ざけてしまいました。

その対立は、IKKOさんが東京で成功してからも続き、お互いの距離が縮まったのは、お父さんが亡くなるほんの直前だったそうです。

『性同一障害』が世間に知られるようになったのは最近のこと。IKKOさんの少年時代に、お父さんが理解できなかったのはしょうがないことですよね
~。

NHK「ファミリーヒストリー」では、IKKOこと豊田一幸さんの心の葛藤を紹介しながら、豊田家の歴史をたどります。

豊田家のルーツは広島の桐材木商

(高祖父)豊田忠七=(曽祖父)義男=(祖父)謹一=(父)幸信=一幸(IKKO)

IKKOさんの家、豊田家のルーツは、広島県芦品郡府中町にありました。

高祖父である豊田忠七さんは、この地で高級家具の材料となる桐の材木商として手広く商売をしていました。

忠七さんが亡くなった時には、自宅から火葬場までの1キロの距離すべてが弔問客だったそうです。

曽祖父義男さんの三男として生まれた祖父謹一さんは、明治の末に福岡県方城町へと移り住みます。

この地は方城炭鉱があり景気も良く、そこで一旗あげようと食料品を売る露天商を始めました。

露天商で儲けたお金でお店を借り、食料品店をオープン。「角打ち」と呼ばれる枡酒を出したところ大成功。

「飲む打つ買う」が大好きな炭鉱の男達に支えられ、お店は大繁盛しました。

その長男として生まれたのが、IKKOさんの父、幸信さんです。

幸信さんは子供の頃から成績優秀で八幡工業高校に進学します。昭和22年、学校を卒業して、北九州にある大手化学メーカーに就職。

恵まれた就職先であったにもかかわらず、わずか3年で退職してしまいます。

幸信さんは、以前から都会への憧れが強く、東京での成功を夢見ていたのです。

幸信さんは、朝鮮戦争景気でわく東京に向い、タオル会社へ就職。営業としてバリバリ仕事をこなします。

その時に出会ったのが、同じ方城から東京にでて美容師をしていた朝子さん(母)でした。

二人は意気投合して昭和32年に結婚、長女、次女が誕生します。しかし、幸信さんは、仕事が忙しくついに体を壊してしまいます。

話し合いの末故郷の方城町へ戻り、実家の近くで朝子さんが美容院を開業することになりました。

東京の美容師のお店ということで評判になり、お店はすぐに軌道にのりました。

父幸信さんの体も回復し、当時は高級品だった「パン」の仲卸業をスタートさせます。

昭和37年、豊田家に待望の長男、一幸さん(IKKO)が誕生します。

父は長男の誕生に大喜び、将来は野球選手にしようとグローブを買い与えますが、一度ボールが頭に当たっただけで二度とやらないという、IKKOさんだったようです。

IKKOさんは、女ばかりの兄妹だったので、女の子と遊ぶのが大好きだったのです。

小学校に入ったときに、同級生の男の子と担任の男先生を好きなり、自分が普通と違うことに気が付いたそうです。

そんなIKKOさんですから、りっぱな男の子に育てたい父との間に、大きな溝ができたのはしょうがない事でした。

小学6年のとき、IKKOさんは従妹の女の子を美容院に呼び、お母さんの前で日本髪を結いはじめたそうです。

一度も教えたことがない日本髪を結えるIKKOさんに、母朝子さんはびっくり。IKKOさんの才能を見抜きました。

やがて、炭鉱が閉山し方城町の人口も半分に減ってしまいます。

それに伴い、美容院の客もパン卸しの仕事も激減してしまい、幸信さんは、乳酸飲料の配達と電気の集金をしながら家庭を支えます。

そんな父に対して、親戚の人たちは「日雇い」と言っていたそうです。それを聞いたIKKOさんは深く傷つき、それがトラウマとなってしまいます。

「父のようにはなりたくない。絶対に成功を掴んでやる!」IKKOさんは、その時に決意したそうです。

IKKOさんの美容家成功の原点

IKKOさんは高校卒業後、地元の美容学校に進み免許を取得、昭和56年横浜の有名美容院に就職します。

そこでめきめき頭角をあらわし、芸能人のヘアメイクとして活躍します。平成1年、IKKOさんは30歳で独立、その後タレント活動も開始し大成功をおさめます。

自分の実力もつき「時代も変わった!」と判断したIKKOさんは、家族にカミングアウトすることを決意します。

「私は女として生きたい!」まずは姉に話したそうです。その話は姉妹へ、母から父へと伝わります。

姉や母は理解してくれましたが、父にとっては一生のうちの最大のショックだったようです。

父がはじめてIKKOさんのスカート姿を見たとき、「はーっ」とため息をついて、ほとんど口をきかなかったそうです。

そんな父幸信さんは、平成20年、78歳で亡くなってしまいます。

遺品の中には、IKKOさんの活躍する記事のスクラップブックがあったそうです。

また、入院中看護婦さんに「IKKOって知ってる?あれ、俺の息子なんだよ」と嬉しそうに話していたそうです。

IKKOさんと、まともに口を聞くことのなかった父幸信さん。それでも、IKKOさんを心の中でずーっと応援していたんですね。