丹波義隆さんのお父さんは、あの大物俳優の丹波哲郎さん。007にも出演した国際スターです。私たちには、キーハンターのボス黒木鉄也としての記憶が一番強く残りますよね。
「NHKファミリーヒストリー」では、丹波義隆さんファミリーの歴史をたどりました。
義隆さんも、「曽祖父丹波敬三が何とかという薬を開発した偉い人」といことを、父哲郎さんから断片的には聞いているだけで、それ以上のことはわからなかったそうです。
1000年にわたる日本の名家丹波家
実は、丹波家とは1000年の系図にのこる日本の名家だそうです。
滋賀県野洲市の7世紀後半の西川原森ノ内の遺跡から、丹波博士(たんばふみと)と書かれた木簡にが見つかりました。博士(ふみと)とは、文筆記録である書記官で、外交や内政で重要な役割りだったそうです。
江戸時代の国学者塙保己一が、日本の由緒正しい16家を厳選し家系図を残した中に、平安時代の丹波康頼(たんばのやすより)の名がありました。
丹波家は、代々公家朝廷に従事したそうです。丹波康頼(912~995年)は、医心法という日本最古の「医学書」全30巻をまとめあげます。
曽祖父丹波敬三の偉業
明治になり、義隆さんの曽祖父の敬三さんの代に移ります。
敬三さんは、1854年生まれ、町医者の次男として産まれます。小さいころから頭がよく10歳でオランダ語を学んでいたそうです。
明治6年、東京大学薬学科、明治17年に敬三はドイツに留学しました。その留学仲間には、森鴎外もいたようです。帰国後に東京帝国大学教授に就任し、裁判科学を教えました。裁判化学とは、毒殺事件などの鑑識だそうです。
さらに、国の依頼で梅毒治療薬ネオ・タンバルサンと、ベービーパウダーのシッカロールを開発しました。
敬三さんは、大正天皇の結婚式にも出席し、駒込に2000坪の広大な敷地に住んでいたそうです。敬三さんは妻貞さんとの間に6男2女をもうけ、次男二郎さんが、哲郎さんの父であり、義隆さんの祖父になります。
自由奔放な祖父二郎さん
祖父二郎さんは、父と同じく東京帝国大学で薬学を学び、陸軍の薬剤官になります。しかし、ある日突然軍をやめてしまいまい、日本画を書き始め画家に転身してしまいます。
その後、新宿のお屋敷で一日中絵を書いていたそうです。大正11年、二郎さんと妻せんさんの三男として生まれたのが、三男正三郎、のちの哲郎さんです。
丹波家のはみ出し者 正三郎こと哲郎さん
正三郎さんは、近所でも有名なやんちゃ坊主で、ガキ大将だったそうです。中央大学に進み、戦争では立川の航空整備学校に配属されました。その直属上司に、のちの巨人軍監督に川上哲夫さんがいました。
戦後、正三郎さんはGHQの通訳を一時勤めていましたが、俳優を目指すようになります。
しかし、俳優として、なかなか芽が出ませんでした。それは、正三郎さんは吃音(どもり)だったことも影響していたようです。
正三郎さんは、荻窪で小さなパチンコを開きながら役者の勉強を続けます。そんなとき知り合ったのが、義隆さんの母貞子さんです。
昭和23年に二人は結婚。貞子さんは、洋裁の内職をしながら、正三郎さんを支えます。昭和27年、正三郎さんは、ついに映画「殺人容疑者」の主役を得ます。そして俳優丹波哲郎が誕生しました。
昭和30年、義隆さんが産まれますが、昭和34年貞子さんは小児麻痺にかかり、以後歩くことができなくなってしまいます。哲郎さんは、お酒も飲まず、付き合いも断り、まっすぐ家に帰って献身的に看病したそうです。
哲郎さんは、日本の名優、さらには007にも出演する国際スターになります。その間も貞子さんは、不安定な俳優業にもしもの時があったら自分が支えると言い洋裁を続けていたそうです。
平成9年、貞子さんは70歳で亡くなりました。本当に仲の良い夫婦だったそうです。
その後、哲郎さんは霊界からの使者として芸能界で活躍し、平成18年9月、84歳で亡くなりました。哲郎さんの半生は、妻貞子さんを支えるものでもあったとも言えるそうです。
兄の泰弘さん(96)は、「彼は丹波家の外れもんじゃなく、大したもんだと思いました」と語ります。
めいの啓子さんは、「大きな流の中の大きなものを担っていた。病気を治すには薬が大切だけど、心を癒やすには叔父がもっていたような、人を楽しませたりすることがすごく大事だと思います」と語っていました。
丹波哲郎さんの本当の姿が分かったような気がしました。