坂本龍一さん、東京藝術大学在学中からプロ活動をスタートし、YMOを結成し、1970年代に大ブレーク。
その後、アカデミー作曲賞、ゴールデングローブ賞、グラミー賞など世界の音楽賞を総なめし、世界の音楽シーンの第一線で活躍してきました。
1983年、大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」では、俳優にもチャレンジ。
若き日のデヴィッド・ボウイ、たけしさん、教授の姿が、あのテーマ音楽とともにしっかり記憶に残っています。
とにかく才能の固まりのような方ですが、どんな家庭に育ったのでしょか。
NHKファミリーヒストリーでは、坂本龍一さんの家系を徹底的に調べあげました。
父は三島由紀夫の編集者である怖い存在
龍一さんは、1952年、東京都中野区に生まれました。
お父さんの坂本一亀さんは、河出書房の編集者、お母さんは帽子デザイナーです。
父、一亀さんは、三島由紀夫さん、中上健次さん、野間宏さんなどを担当していた名編集者だったそうです。
龍一さんにとって、お父さんはとても怖い存在だったようで、子供の頃から近づけないような存在だったようです。
祖父は実業家で、池田勇人総理大臣とは高校、大学の同級生で大親友。池田首相とは、生涯親友としてお付き合いしていたようです。
さらに坂本家のルーツを遡っていくと、福岡藩黒田家の家臣だったことがわかりました。
坂本家のファミリーには、どんな歴史が刻まれているのでしょう。楽しみですね。
坂本家は南黒田家福岡藩の銃手(足軽)
坂本龍一さんは、昭和27年東京都中野に生まれました。坂本家の先祖については、ほとんど聞いたことがなかったそうです。
曽祖父(兼吉)==祖父(昇太郎)==父(一亀)==龍一
曽祖父兼吉さんは、福岡県朝倉市で暮らしていました。大正5年の地図を調べてみると、この地で昭和のはじめまで、日本料理店を営んでいたことがわかりました。
また、兼吉さんは、旧三奈村の坂の下という場所の出であり、訪ねてみると坂本家は、江戸時代に南黒田家福岡藩に仕える銃手(足軽)だったことがわかりました。
九州大学で黒田家の銃手を調べてみると、兼吉の父もまた、足軽だったと記載されていました。
明治になると、藩から米をもらえなくなったため、兼吉さんは甘木町にでて料理屋をはじめました。
店は繁盛し、兼吉さんは町の有力者となりました。そして、祖父である昇太郎さんが生まれます。
ハンサムで素人歌舞伎の超人気者の祖父
昇太郎さんは、子供の頃から芸事が好きで、甘木芸界の達者という新聞記事が残されてました。素人歌舞伎などもやっていて地元では大人気だったようです。
昇太郎さんは、家の料理店で勤めていた女性、タカさんと結婚、龍一さんの父一亀さんが長男として生まれます。
甘木に劇場ができ、昇太郎さんは劇場の経営者となりますが、そこで殺人事件がおきてしまい経営から離れます。
その後、単身で福岡に渡り保険会社に勤めますが、四男二女の6人の子供がいたにもかかわらず、そこに女性ができてしまいます。
父代わりとなり兄弟を育てた父
長男である一亀さんは、父代わりとなり弟たちを厳しくしつけたそうです。昭和15年、一亀さんは日本大学文学部に入学します。
大学に入学した翌年、戦争が始まり学徒出陣することになります。昭和19年には満州に配属、終戦の年本土決戦に備え福岡に戻り、4ケ月後に終戦を迎えます。
一亀さんは戦後、何も手がつかず家にいましたが、やがて福岡で同人誌「朝倉文学」を発行するようになります。
同人誌は、たまたま東京からきていた関係者の目にとまり、誘われて東京の「河出書房」に勤めるようになります。
そして、龍一さんの母となる、下村敬子さんと出会います。下村家は明治時代、長崎で農業をしていたようです。
母の父は極貧から京都大学へ、池田勇人の生涯の友
家は貧しく敬子さんの祖父は、鈴を着けて走る便利屋さんのような仕事をしていました。
敬子さんの父、弥一さんは、家が貧しいため学校にいくことを断念したものの、あきらめきれず勉強を続け、旧制中学に編集します。
そして、第五高等学校(熊本大学)に入学します。そこで出会ったのが、後の総理大臣となる池田勇人さんでした。
大正11年、弥一さんは京都帝国大学(京都大学)法学部に入学します。卒業後に共保生命保険に入社、順調に出世していきます。
4人の子供に恵まれ、子供たちの教育には力を入れます。長女である敬子さんは、ピアノ、読書、勉強もよくできたそうです。
三島由紀夫は父が発掘
一亀さんは、この頃新人の発掘をしていたそうです。そして、当時大蔵省に勤めながら小説を書いていた男に目をつけます。
その男の名は、三島由紀夫。一亀さんが声をかけると、2つ返事で快諾したそうです。そして一亀さん編集の元「仮面の告白」が生まれます。
その頃、一亀さんと敬子さんは結婚し、2年後に龍一さんが生まれます。
一亀さんは、有名になった三島由紀夫には興味を示さず、次々と新人発掘を行います。水上勉さんは、一亀さんに4回書き直しされられたそうです。
一亀さんは新人作家に「妥協するな、最善をつくせ」といい、励ましていたようです。一亀さんの育てた作家は、皆一流の作家に育ちました。
そんなことから龍一さんの子育ては、敬子さんに任されていました。龍一さんは、3歳のときからピアノを習わせられました。
目を合わすことができない怖い父
龍一さんは、作家たちを怒鳴り、いつも朝帰りする父の目を、怖くてまともに直視したことはなかったそうです。
そのため、龍一さんは子供の頃から他の人に対しても、目を合わせることができなかったそうです。
龍一さんの好きだったのは、母方の伯父三郎さん。数学教師でありながら音楽も好きだった伯父の影響で、本格的に音楽の道に進もうと決意し、東京芸術大学の音楽学部作曲科に入学します。
そして、YMOを結成し、音楽とファッションと化粧で、時代の最先端を突っ走りました。
その時、父は「なんで音楽で勝負せんか」「おれはお前をピエロにしようと思って音楽学校に入れたわけじゃない」とカンカンに怒ったそうです。
龍一さんがアカデミー賞をとり、帰国した時のパーティでも父はニコリともせず、目もあわせずに話をしていたそうです。