黒木瞳さんは、福岡県八女市黒木町に1960年生まれて高校までその地で育ちました。お父さんが剣道7段だったことから、小さい頃から中学2年まで父に剣道を習っていたそうです。

黒木さんは、高校卒業後、熊本県の音楽学校へ進学が決まってましたが、卒業記念に内緒で受けた宝塚歌劇団に合格し、以降月組トップ娘役としてスターの階段を駆け上がります。

本名は「江上昭子さん」といい、歌劇団では「ショーコ」という呼ばれていたそうです。黒木瞳という芸名は、同郷の五木寛之さんが、出身の黒木町(くろぎまち)にちなんで名づけてくれたとか。

黒木さんの本当のおじいさんは、黒木さんのお父さんが小さい時に亡くなっており、お父さんも12年前に亡くなってしまったため、父方の家系はよくわからなかったそうです。

今回、黒木さんの先祖を調べてみたら、なんと戦国時代まで遡るまでの歴史がありました。また、87年前に祖父と父の姉を亡くしたのには、ある出来事が関係していたようです。

黒木瞳さんのファミリーヒストリー、はたしてどんな歴史が隠されていたのでしょうか。

黒木瞳さんのファミリーヒストリー

福岡県八女市黒木町は、人形やお茶の栽培が盛んな町です。黒木さんはこの地で4人兄弟の末っ子として産まれました。

子供の頃から、両親や兄弟の愛情を受けのびのびと育ちました。小さいときは、山や川、畑を駆けまわり、勉強なんて全然しなかったそうです。

黒木さんの先祖は「樋口家」。父義仁さん、その父俊吾さん、更に亀太郎さん、彦平さんまでさかのぼります。黒木さんは、祖父が亡くなった後、祖母が再婚し江上家になったため、父方である樋口家との繋がりは、ほとんどなかったそうです。

樋口家を調べてみると、豊臣秀吉の時代まで遡る由緒ある家柄でした。秀吉が九州を平定したときに黒木の地を任されたのが樋口家で、明治まで一帯を収める裕福な庄屋だったそうです。

しかし、明治になり黒木で金山採掘に乗り出し、失敗して没落してしまいます。そんな中、黒木さんの実祖父である俊吾さんは、黒木をでて福岡でお茶の専門店を開き成功し、やがて美人で評判の祖母であるミネさんと知り合い結婚します。

二人の間に、長女と黒木さんの父にあたる義仁さんが生まれますが、長女は3歳のとき腸チフスかかり亡くなってしまいます。その2週間後、必死の看病をしていた祖父の俊吾さんも腸チフスが伝染り亡くなってしまいます。

祖母ミネさんは、父である義仁さんを連れて生まれ故郷の黒木町に戻り食堂を始めます。

その後、祖母ミネさんは博労(家畜の売り買い人)をしていた、江上さんと知り合い一緒に住むようになります。父義仁さんは、血の繋がりのない江上さんと自分が家庭をもつまで打ち解けなかったそうです。

父義仁さんは、そんな寂しさを打ち消すように大好きな剣道にのめり込みます。成人して建設会社に勤め、黒木さんの母となる武子さんに一目惚れし結婚します。

二人は4人の子供に恵まれ、幸せな家庭を築きます。父義仁さんは義理の父の博労の仕事を継ぎ、母武子さんは祖母ミネさんのしていた食堂を継ぎ、子供を育てました。

父は、博労の仕事から畜産業に仕事を変え、その傍ら地元の子どもたちに剣道を教えるようになります。当然自分の子供たちにも、小さい時から剣道を習わせました。

父は、長女には銀行、二番目は地方公務員、三番目と四番目の黒木さんには、学校の先生になってもらう夢をもってました。

しかし、黒木さんは、父に内緒で宝塚を受験し難関を突破し合格してしまいます。宝塚への許しを請う黒木さんに、父は決して了承しなかったそうです。

しかし、黒木さんの活躍を誰よりも喜んだのは父でした。後年黒木さんと剣道着を着てテレビに出演した義仁さんは本当にうれしそうでした。

母、武子さんは、瞳さんが大女優になるのをいつも励まし暖かく見守ってくれました。

「いつまでも体に気を付けて大女優になってくださいね。ナレルデッタイ!」1988年元旦に書かれたお母さんのメッセージが、貯金通帳の袋の上に残ってました。

黒木さんは、黒木町で育った18年の間に、考え方や生き方などいろいろなことを両親から学んだといいます。

黒木瞳という芸名にまつわる不思議な話

黒木瞳という芸名は、同郷の作家五木寛之さんが、出身地と黒い瞳にちなんでつけてくれたのですが、3歳の時に亡くなった父義仁さんのお姉さんの名前が「瞳」だったことが、今回の取材ではじめてわかりました。

この事実は、今回の取材でアルバムを整理していた時にわかったことで、名前ばかりでなく漢字まで一緒という偶然に、黒木さんだけでなく家族皆が驚いたそうです。