日本人ならだれでも知っている萩本欽一さんこと、欽ちゃん。全盛時代には、どのチャンネルをひねってもコント55号がでていましたよね。

舞台のソデを飛び出したり、走り回ってどつき合いしたり・・子供の頃、いつも見て笑い転げていました。「欽ドン!」の欽ちゃんファミリーも、ほのぼのして面白かったですね。

そんな欽ちゃんですが、浅草の劇場出身は知ってましたが、下積み時代や私生活については、ほとんど知りませんでした。

ところが、2014年12月から日経新聞の「私の履歴書」で欽ちゃんが連載され、壮絶な人生が多くの人に知れることになります。

長屋住まいやお手伝いさん付きの豪邸住まい、そして、お父さんのカメラ事業失敗による極貧と家族解散などの子供時代。

極貧生活から抜けだしたいと高校卒業後に喜劇役者目指して、浅草東洋劇場の研究生になった青年時代。そこで知り合った安藤ロール(二郎さん)と、下積み時代の欽ちゃんを支え続けてくれたお姉さん(奥さん)。

大嫌いだった安藤ロール(二郎さん)と一回こっきりの契約で立ったコント舞台が大受けし、それから狂ったように回りだす芸人人生。

欽ちゃんは「私の履歴書」を書くことで自分の人生を振り返り、両親の人生についても考えるようになったのでしょうか。

4月3日放送の「ファミリーヒストリー」(NHK)で、両親のルーツについて調査してもらいその全てを知ることになります。

香川県小豆島出身の両親が東京にでてきた理由、事業にのめり込む父の活躍と没落、歯をくいしばって家族を支え続けた母。

欽ちゃんはお母さんを楽にさせたいと芸能人を目指したのですが、お母さんはお笑いの世界が嫌いだったそうで、いつの間にか大きな溝ができてしまったそうです。

今回の調査で、欽ちゃんへの未送付のお母さんの手紙が見つかったそうです。そこに書かれていたお母さんの思いに欽ちゃんは号泣してしまいます。萩本家の壮絶なファミリーヒストリーが語られました。

ここからファミリーヒストリーの内容です。

萩本家の本家は、小豆島で15代続くよろず屋だったそうです。欽ちゃんのおじいさんは、その分家筋でまんじゅう屋をおこし財をなします。

まんじゅう屋の三男が、欽ちゃんのお父さんの団治さんです。団治さんは、家を継ぎたくないと20歳で小豆島を飛び出し、東京上野のカメラ屋に勤め、やがて独立し自分のお店萩本商店を持ちます。

団治さんは、良家のお嬢様だったトミさんと結婚し、四男ニ女をもうけます。欽ちゃんは、昭和15年三男として誕生しました。

父団治さんは、戦時中「戦争のあとには平和がくる、その時カメラで日本に笑顔を取り戻したい」と、ありったけのお金を出して、カメラの部品を買い集めました。

戦争が終わり、集めた部品でカメラを組み立て販売したところ、進駐軍が観光がてらに写真をとりたいと買い求め、長蛇の列ができるほど売れまくりました。

萩本商店はひと財産を築き、一時は上野、銀座、神田、日本橋に出店し、諏訪に従業員100名規模の工場もあったそうです。

昭和22年、進駐軍は日本人の健康管理が優先と、カメラのフィルムを生産を規制し、レントゲンのフィルムをつくるように命令、日本のカメラ業界に暗雲が立ち込めます。

そこで、団治さんは、小さなカメラならば当たると読み、全財産をつぎ込み35ミリフィルムの小型カメラ「ダンカメラ」を開発製造します。

しかし、ダンカメラはまったく売れず借金が膨れ上がり、借金取りに追われる生活になってしまいます。家族はやむなく解散し、それぞれが自分の技量でバラバラの人生を歩むことになります。

欽ちゃんは、家族を救うためコメディアンになることを決意し、芸能の道に進みます。長い下積みのあと、欽ちゃんは二郎さんとコント55号を結成し、人気が爆発します。

コント55号がテレビの世界で不動の地位を築いたとき、欽ちゃんは大きな家をたて母を楽にしてあげようと、母を探し出し迎えにいったそうです。

欽ちゃんは、「よく頑張ったね」という暖かい言葉を期待したそうですが、母から返ってきた言葉は「昼間帰ってくるんじゃありません、夜帰ってらっしゃい」「近所にバレたらどうすんの」でした。

「母はコメディアンという職業を恥ずかしいものと思っている」と理解し、欽ちゃんはそれ以降、母と距離をおくようになってしまったそうです。母が、欽ちゃんをようやく認めてくれたのは、長野オリンピックの司会を務めた時だったそうです。

今回の取材で、晩年の母の面倒を見ていた四男悦久さんから、思いがけないものが渡されました。それは、欽ちゃんあてに書かれた何枚もの母の手紙でした。

お母さんは、いつも欽ちゃんを気にかけ何枚もの手紙を書いていたのですが、一切だすことはなかったそうです。その手紙には、欽ちゃんの活躍を喜び、体を心配する母の気持ちが綴られていました。

欽ちゃんは、その手紙を見て、「なんか母ちゃんらしいや・・この手紙に会えて本当によかった・・」と号泣してしまいました。

実は、母トミさんは、貧乏のせいで子供から教育の機会を奪ってしまったことを、最後まで気にしていたようです。そんな母に欽ちゃんは、「お金を稼いでからゆっくり大学にいくから・・」といってました。

欽ちゃんは、母との約束を守るため、2015年駒沢大学を受験しみごと合格。2015年4月より大学生になります。「それが小さな親孝行になるかな・・」と欽ちゃんは、うれしそうに話してました。