日本の音楽シーンの最先端を走り続けてきた細野晴臣さん。1947年に東京都港区に生まれ、小さなころから音楽に親しみプロの世界で大活躍します。

はっぴいえんど、キャラメル・ママ、イエロー・マジック・オーケストラと、常に時代のトップバンドのメンバーとして、日本の音楽シーンに大きな影響を与えてくれましたよね。

そんな細野さんの先祖は、世界中のだれもが知っている事件に巻き込まれ、壮絶な人生を送ったようです。

その事件とは、タイタニック号です。細野さんの父方の祖父は、日本人唯一のタイタニック号の乗客でした。

タイタニック

細野さんの祖父、細野正文さんは、1870年新潟県中頸城郡保倉村生まれます。

東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業後、逓信省に入省後、東京外語学校でロシア語を勉強し、帝国鉄道庁に勤めるというエリートの道を歩んでいました。

1912年、鉄道院在外研究員として、ロジアのサンクトペテルブルクに留学し、その帰路に乗ったのが、タイタニック号でした。

そして、タイタニック号が沈没、乗員乗客合わせて1,513人が亡くなりました。助かったのが771人、その生存者の1人が細野さんの祖父、細野正文さんだったそうです。

しかし、喜ぶはずの生還が思わぬ展開に巻き込まれます。

ある白人男性が「日本人が他人を押しのけ救命ボートに乗った」と証言。日本人乗船者は細野さん一人だったため、世界中から「卑怯な日本人」として大きな批判をあびることになります。

NHKファミリーヒストリーでは、細野晴臣さんの先祖たちの波乱にみちた人生を紹介します。

NHK細野晴臣ファミリーヒストリー

父方の祖父細野正文さんが、タイタニック号に乗る直前に在ロシア日本大使館で撮影された写真です。

母方の祖父中谷孝男さんが、日本楽器製造(ヤマハ)に勤めていた頃の写真です。日本の調律師の草分けで、やがて国立音楽学校に調律を開きました。

細野晴臣さんの父方のヒストリー

細野家は、曽祖父の九右衛門さん、祖父の正文さん、父、そして晴臣さんと続きます。

九右衛門さんは、現在の新潟県上越市の出身で、900坪のお屋敷に住む豪農でした。

明治3年に、晴臣さんの祖父正文さんが誕生。正文さんは小さい頃から成績が優秀で、やがて東京高等商業学校(現在の一橋大学)に進学します。

卒業後は逓信省鉄道作業局に入り、エリートの道を進みはじめます。土肥トヨさんと結婚し、3男1女をもうけました。

やがて、ロシアの鉄道事情を学ぶためロシアに留学し、日本への帰路の際、当時の世界最高の性能をほこるタイタニック号に乗りることになります。

明治45年(1912)4月14日、タイタニック号は氷山と激突し運命のときを迎えます。細野正文さんは、九死に一生を得て奇跡の生還をはたします。

帰国直後、正文さんは英雄視されますが、やがて「女子供をさしおいて助かった」「昔の武士なら生きて帰らない」などの批判がでるようになります。

正文さんは、エリートの道を外され、晩年は岩倉鉄道学校の担当教諭として職務を終えました。

正文さんはタイタニック号の事に関しては、誰にも一切話しませんでしたが、亡くなってから遺品の中に、事故直後に書かれた詳細なメモが残っていました。

昭和17年、遺族はそれを「巨艦タイタニック号の遭難日記」としてまとめ出版しましたが、戦時中のこともあり、見向きもされませんでした。

以降、細野家の血筋の人は、現在に至るまで、延々と汚名の重みを背負って生きることになります。晴臣さんも小さなころから、その重荷を感じて生きてきたそうです。

細野晴臣さんの母方のヒストリー

晴臣さんの母方である中谷家の祖父孝男さんは、日本の調律師としての草分けの存在です。

浜松に育った孝男さんは、小学校を卒業すると同時に日本楽器製造(現在のヤマハ)にオルガン職人として勤めます。

その後、ピアニスト澤田柳吉氏の演奏でピアノの音に魅了され、調律師になることを決意します。

しかし、当時の日本に調律師に関する知識はほとんどなく、西洋から原本を取り寄せ辞書を引きながら独学で一から学んでいきます。

やがて、日本楽器製造をやめ調律師として独立し、世界的な演奏家レオニード・クロイツアー氏などの調律を手がけます。

晩年は、国立音楽大学で別科調律を立ち上げ、後世の育成に勤めます。大学の職員室には、孝男さんの「美音求真」という書が、今でも掲げられているそうです。

そんな環境の中で、晴臣さんは育ちました。小さいころから、祖父のレコードを何時間も聞いているような子だったそうです。

晴臣さんは、祖父の仕事が好きで「調律師になりたい」と相談したそうですが、即座に「ダメだ」と言われたそうです。

今回の取材で、はじめてその理由が分かりました。「音楽的な耳と調律の耳は、必ずしも一致しない」と、晴臣さんの音楽の才能を見抜いてのことでした。

タイタニック汚名のその後

1997年映画「タイタニック」の大ヒットを機に、タイタニック財団から細野家に連絡があり、正文さんの手記をぜひ見たいとの話がありました。

財団では、その手記を詳細に調査、正文さんの乗っていた救命ボートでは、まだ空きがあり、だれかを押しのけるような行為はなかったことがわかりました。

この事実は、世界中の配信され、85年ぶりに細野家の汚名をそそぐことができました。

晴臣さんは、細野家の親族を集めて、皆でその快挙を祝ったそうです。