いつも元気な笑顔のはるな愛さん。思いやりのある前向きなコメントでバラエティ番組にひっぱりだこですよね。
はるな愛さんの本名は大西賢示さんで男性であることは誰でも知っています。
小さい頃から性同一性障害に悩み、自分自身との葛藤があったことを、いろいろな番組でカミングアウトしていますよね。
性同一性障害という病気があることを、誰でも知るようになったのは最近のこと。それまでは、人に言えず同じ病を抱える多くの人が、悩み苦しんでいました。
そういう意味でも、すべてをカミングアウトし、堂々と生きるはるな愛さんの存在は大きいと思います。
NHKのファミリーヒストリーでは、そんなはるな愛さんの両親を追います。
愛さんのお母さんが生まれたところは、愛媛県佐田岬。四国から九州に向けて、槍のように尖って伸びているところが佐田岬です。
佐田岬は、日本を貫く断層である中央構造線の一部であるため、断崖絶壁が続き平地はほとんどありません。
お母さんの実家は、戦後の食糧難のときに、その地で募集された開拓農家だったようです。
しかし、この場所は、1934年に襲った室戸台風のような大型台風の通り道であり、お母さんの実家も度々の台風に襲われ開拓を続けられず挫折、家族で大阪に移住することになります。
その時、まさに高度成長時代。1970年には大阪万博が開催されています。お母さんの実家は、運良く当時のあこがれの的であった、団地に当選し移り住みます。
その団地で愛さんのお父さんと知り合い、二人は結婚します。しかし、幸せは長く続かなかったようです。苦しかった当時のことを、母が初めて告白します。
はるな愛のファミリーヒストリー
愛さんの母方が暮らしたのは、佐田岬半島の西宇和郡伊方町三机です。かつては、薩摩藩や宇和島藩が参勤交代で江戸へ向かう寄港地として賑わっていたそうです。
昭和初期、愛さんの曽祖父中松重松さんは、三机で桶をつくる「タリ屋」という商売をしていたそうです。
桶は当時、家庭の必需品。腕もあり家族も増えたことから、もっと稼ごうと九州の別府に渡ります。別府は日本有数地の温泉地であり、温泉や旅館で使う桶の需要が沢山ありました。
しかし、日中戦争が始まる頃になると、別府の活気も徐々になくなってしまい一家は、再び佐田岬に戻り、佐田岬の開拓地に入植しました。
愛さんの祖母はるのさんはこの地で結婚し、長女はつみさん(愛さんの母)を出産します。自給自足のギリギリの生活でしたが、幸せなな日々だったそうです。
そんな矢先の昭和25年9月13日、九州、四国地方をキジヤ台風が襲います。愛媛県内では2万戸が浸水し、佐田岬の開拓地は壊滅的な被害を受けてしまいます。
祖母はるのさんの家も半壊、畑も全滅状態でした。一家は佐田岬を離れ大阪にでる決意をしました。
移り住んだのは、大都会大阪大正区。4畳半1間のアパートを借り家族7人で暮らし始めました。
当時、愛さんのお母さん、はつみさんは中学生。大阪の都会に驚いたそうです。昭和40年、母はつみさんが中学3年のとき、市営団地に当たり引っ越しました。
はつみさんは中学を卒業し、その団地から働きにでるようになります。その通勤のバスの中で、愛さんの父となる大西和夫さんと知り合いになり結婚することになります。
やがて、長男、賢治さん(愛さん)、弟裕二さんが生まれ、家族4人の幸せな日々を送ります。和夫さんは長距離トラックの運転手をし家族を支えてくれました。
しかし、和夫さんはギャンブルに手をだすようになり、外に愛人までつくるようになってしまいます。
夫のいない家に毎日来る借金取りに精神的に追い込まれ、母はつみさんは、ガス栓をひねり子供をつれての自殺を図ったこともあったそうです。しかし、たまたま帰ってきた父和夫さんの発見で、それは未遂に終わりました。
その後、はつみさんは子供を育てるため、昼はパチンコ店、夜は飲食店で狂ったように働きはじめます。
そんなギリギリの生活の中、気がかりなことがありました。賢治さんが女のような素振りを見せるようになったことです。
中学になると賢治さんは、女みたいで気持ち悪いと学校でいじめを受けるようになります。
高校に入学して3ヶ月、賢治さんは父に「僕、女として生きていきたいんだ」と告白します。父、和夫さんは、「わかった、俺はお前を応援する・・」と答えたそうです。
しかし、その事実を知った母はつみさんとの関係は、ぎくしゃくするようになり、目を合わせることもなくなってしまったそうです。
その後、賢治さんは家をでて芸能界を夢見て働き始めます。その後、母はつみさんは和夫さんと別れ、50歳で再婚しました。
芸能界で成功した愛さんは、母の再婚にあたりサプライズの結婚式をプレゼントしたそうです。
はつみさんは、「もう一生分の親孝行をしてもらったので、あとは自分のことだけ考えてほしい・・」
「私には、最高の娘です。この子と弟がいるから私は生きてこれた・・、子供って宝物ですね・・」と涙しながらしみじみと話してくれました。
父和夫さんさんは、「小さい頃は悲しい顔しかみれなかった・・(自分が)相当悪いことしてしまったから・・」「もっと早く、賢治に笑顔を見てあげられればよかった・・」とかつての自分を反省し、今は、家に愛さんのポスターを貼り、毎日見てから仕事に向かっているそうです。
愛さんは、今回ガス自殺の件をはじめて知ったそうです。昔は、「ママは私のこと気持ち悪くて嫌いになったんだ・・」と思っていたそうです。
「人生って幸せなことの連続だよってことを、ママに思ってもらいたい・・。パパにもね」と、二人への思いを愛さんは、素直に語ってくれました。