大原麗子さん 私たちの年代には、忘れられない女優さんですよね。ちょっと眩しそうな目をして、いたずらっぽく笑う。
ハスキーな甘えるような声で、「すこし愛して、ながく愛して・・」は、世の男性のほとんどを虜にしました。
大原さんが亡くなったのは、2009年8月3日、享年62歳。死因は、不整脈による脳内出血、自宅の居間で孤独死していました。
大原さんのデビューは、1964年のオリンピックの年。NHKの新人オーディションに18歳の時に合格し、ドラマ「幸福試験」でデビューしました。
その後、映画や、サントリーのCMで大人気に。73年に渡瀬恒彦さんと結婚し、79年離婚。80年に森進一さんと再婚し84年離婚。
森さんとの離婚会見で語った「家に男が2人いた・・」は、当時随分話題になりましたよね。
大原さんの告別式には、渡瀬恒彦さん、森進一さんも参列したそうです。
大原さんの3回忌に合わせて出版された「大原麗子10+ 件・炎のように」で、人生に闘いながら生きる大原さんのすべて描かれています。
著者は、芸能ジャーナリストの前田忠明さん。
そこに描かれていたのは、整形手術の失敗、妊娠中絶、乳がん、ギラン・バレー症候群など、今まで誰も知らなかった大原さんのナマの姿でした。
大原さんの弟さんによると、大原さんの生涯をドラマ化することは、大原さん自身の希望であり、遺言だったそうです。
TVドラマ化することも決まり、実際に大原さんの暮らした世田谷の自宅を使って撮影が行われたそうです。
大原さんの渡瀬さんへの想い
スピリチュアルメッセンジャー、上地一美さんが大原さんの家を訪ねて、その足あとを辿ります。
渡瀬恒彦さんへの思い。それは、大原さんの一目惚れから始まったそうです。そして渡瀬さんと結婚、二人の間に妊娠しましたが、残念なことに子宮外妊娠でした。
渡瀬さんは、その手術のときに立ち会い、自らの血の輸血を申し出て大原さんに輸血したそうです。
大原さんは、最後まで「私に体には渡瀬さんの血が流れている」と言っていたそうです。
別れることになったきっかけは、渡瀬さんの2年に渡る京都撮影でした。大原さんには、東京で女優を続けるか、京都へ渡り家庭に入るかの選択だったようです。
最終的には、大原さんは女優の道を選び、渡瀬さんと離婚しました。
50歳になると、女優大原麗子のイメージが崩れるのを極端に嫌がり、主演にとことんこだわったそうです。
そして、52歳のとき、自らの年齢に不安を感じ「目が下がってきたし・・・」と整形手術を受けることになります。手術の内容は、右目を二重にする手術でした。
しかし、手術は失敗に終わり、仕事はまったくこなくなりました。以降、収入がなくなり事務所は赤字となり、同時にギランバレー症候群が再発。躁鬱になり体も心も壊れていったそうです。
最後の頃には、友人や仕事仲間にも八つ当たりするようになり、石井ふく子さんに夜中電話して「バカ」と叫んだそうです。
親友には、「静かに黙っていくからね・・」と話し、そのとおり一人寝室で亡くなっていました。
その寝室で、上地一美さんが大原さんから受けたメッセージは、「一つだけ思い残すことは、渡瀬さん会って謝りたかった・・」
そして、「私は孤独死ではない、死ぬのは怖くないのよ・・」といい、息を引き取ったそうです。スクラップブックには「渡瀬麗子」と書かれていたそうです。
女優として人生に真っ向から挑み、生き抜いた大原麗子さん。でも、本当は一人の女性として、いつまでも長~く愛されて生きたかったのではないでしょうか。
もし、大原麗子さんが生きていたら、可愛いおばあちゃんになっていたんでしょうね。