タカアンドトシは、子どもから大人まで幅広い年齢に慕われていますよね。
なんかポワーンとした優しさのような雰囲気が感じられて、とても好感が持てます。
「天才!志村どうぶつ園」にいると、お2人がかわいい動物のような感じがしてしまいます。
お二人とも北海道出身ですから、「内地の人とは何かが違う」かもしれませんね。
タカアンドトシのコンビ結成は、なんと中学2年生のときのようです。
プロになって売れるまで何回もコンビを解消、結成を繰り返す世界の中で、中学校からずっと一緒というのもスゴイですよね。
樺太からの決死の引揚げ
今回、NHKファミリーヒストリーで紹介されたのは、「トシ」さんです。
トシさんこと、三浦 敏和さんは、1976年7月17日北海道の旭川で生まれました。
タカさんとの出会は、札幌の中学校ですから、旭川から札幌に越してきたんですね。
旭川の前の歴史をたどると、トシさんの家族は、戦前は旧樺太に住んでいたようです。
終戦後、樺太からの引き揚げにあっては、後世に命を繋ぐ壮絶なドラマがあったようです。
そのドラマとは、終戦から7日後の8月22日におこった「三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)」のことでしょうか。
「三船殉難事件」は、女性や子どもをのせた樺太からの引揚船3隻が、ソ連軍と思われる潜水艦の魚雷攻撃を受け、1708名が犠牲になった事件です。
また、トシさんのお父さんは、ある大物ミュージシャンのマネージャーしていたそうです。
トシさんは、父方も母方も家族のルーツのことをほとんど知らなかったようです。
北海道の人の多くは明治になってきてから、内地(本州)から移られた方が多いと聞きました。
はたして、トシさんの家族には、どんなヒストリーがあったのでしょうか。
トシさんのファミリーヒストリー
トシさんの父方の系図です。
猪亦惣右衛門==善吉(三浦家養子)==善作==敏==法人==敏和(トシ)
今回、トシさんの高祖父は猪亦(いのまた)という珍しい苗字であることがわかりました。
猪亦という名前は、岩手県津軽石一帯に多い名前で、トシさんの先祖は鍬ケ崎という地で漁業を営んでいました。
明治になると、多くの漁師はニシンで当てようと北海道に渡ります。
明治10年、善吉さんも北海道の積丹半島の先端にある余別村に移り住むことになります。
善吉さんは、三浦という網元の下で働き始めます。そこでの真面目な働きぶりから、三浦家の婿養子となります。
明治12年善作さん(トシさんの曽祖父)が誕生します。善作さんは父の跡をつぎ網元になります。
三浦家は、100人くらいの従業員のいる大きな網元だったようです。しかし、昭和に入って北海道ではニシンはとれなくなりました。
網元たちは、困窮し夜逃げ同然で散っていったそうです。
北海道から樺太に再起をかけわたる
善作さんは、樺太でニシンをとることを決意し、樺太にわたります。
しかし、樺太にわたって5年後の昭和12年、成功を手にすることなく58歳亡くなってしまいます。
この時一人息子の、敏さん(さとし:トシさんの祖父)は樺太で地方公務員である水産物検査員についていました。
とてもまじめで、けっして妥協をしない仕事ぶりだったそうです。
昭和19年、敏さんは海軍から招集され、滋賀の飛行場で特攻機「桜花」の整備兵となります。
昭和20年8月15日、滋賀の地で終戦を迎えます。また、同時に樺太へのソ連侵攻を知ります。
当時、樺太には、敏さんの妻のフクさん、6歳、2歳、1歳の子供が残されていました。
樺太から決死の引揚げ
敏さんは、家族を守るため樺太を目指しますが、すでにソ連が占領しているため渡ることができません。
樺太からの引き揚げの船は、次々とソ連の潜水艦の攻撃をうけて沢山の犠牲者がでていました。
フクさんは、とりあえず子供を先に船に乗せて、自分は後から追いかける決意をしたそうです。
無事、北海道に戻った家族は敏さんと再会し、敏さんの故郷である余別で暮らしはじめます。
北海道での生活
敏さんは、北海道庁で再び水産物検査員の職につきます。
昭和24年、トシさんの父親である法人(のりと)さんが次男として生まれました。
法人さんは、父敏さんから厳しく育てられたそうです。
「嫌な顔して仕事を絶対にするな。やる時には嫌だろうがなんだろうが笑顔でやれ。そうすれば人は認めてくれるぞ」それが、父敏さんからの教えだったそうです。
法人さんは、高校を卒業し自動車部品を扱う会社に就職し、カーオーディオである8トラックの販売の職につきます。
そこでの真面な仕事ぶりが評価され、大手メーカーである北海道ポニーからの要請で、ポニーキャニオンに移ることになります。
昭和45年、仕事帰りに行ったレストランで、妻となる由美子さん21歳(トシさんの母)と出会います。
2人は1年の交際を経て、昭和46年に結婚、昭和51年次男として生まれたのが敏和(トシさん)です。
父は松山千春さんのマネジャーに
その当時ポニーキャニオンは、レコードが主力の会社になっていました。
そこに乗り込んできたのが、松山千春さんでした。
ニッカボッカの汚いズボンをはいて、はっぴを着ていて目がギラギラしていて、歌が抜群にうまかったそうです。
法人さんと千春さんはすぐに打ち解け、千春さんから一緒に仕事をしてほしいと頼まれます。
そして、法人さんは千春さんのマネジャーとなり、スター街道を駆け上がる千春さんを陰ながら支えました。
4年後、法人さんは建設会社に転職しました。
お笑い芸人になりたい トシさんの決意
法人さんは、高校生になった敏和さん(トシ)から、突然ある決意を告げられます。
「とうちゃん、俺お笑い芸人になりたいんだ・・」中学時代の同級生、鈴木崇大(タカ)とコンビを組み、芸能界を目指したいという決意でした。
「大学に行きながらからじゃ、だめなのか・・。」と聞いたら、トシさんは「中途半端になる」と答えたそうです。
「じゃ、好きにせい。だけど後悔だけはするな」と言ってそうです。
その後、コンビのタカアンドトシは、高校2年で吉本興業のオーディションに見事合格。8年後には、東京進出します。
その後のタカアンドトシの活躍は、ご存知の通りですね。
法人さんは、トシさんに自分の父敏さんから教えられた言葉を同じように伝えたそうです。
その言葉とは、「嫌な顔して仕事を絶対にするな」そして、「スタッフは大事にすること」「お前ひとりでなんか仕事できないんだよ」でした。
その言葉を守りながら芸能会で生き抜く
タカアンドトシが全国区で活躍するようになった平成22年、トシさんは結婚します。
その披露宴の挨拶では、吉本興業の社長が次のようにスピーチしました。
「テレビの制作会社の社長に会った時『タカアンドトシはいいね~、2人はどんなロケでも愚痴1つ言わず、問題も遅れることなく一生懸命仕事をするんだ、彼らは本当にいいね~』と言われました。きっと親御さんの育て方、教育のたまものなんだなあ・・と思っております」
その言葉を聞いた父法人さんは「こいつはちゃんと言った事守ってくれてるんだな・・」と、涙がでるほど嬉しかったそうです。
その言葉を守りながら、タカアンドトシは芸能界で活躍しています。
トシさんのやさしい雰囲気のバックボーンが分かったような気がしますね。