中村勘三郎さんが亡くなったのが、平成24年12月5日。勘三郎さんは、1955年生まれですから、私たちと同年代です。

小さなころから子役として活躍し、古くなった歌舞伎に新しい風を吹き込み、日本の伝統文化「KABUKI」を世界に広めてくれた彼の活躍は、同じ年代として、誇らしく感じていました。

57歳という短い人生は、本当に残念でなりませんね。

勘三郎さんの体に異変が起こったのは、2011年2月頃。

2011年2月 「特発性両側性感音難聴」を発病
2011年7月  復帰公演
2011年12月 初期の食道がんであることを公表
2012年7月  がん摘出手術を受ける
2012年11月 肺疾患状態であることが判明
2012年12月 急性呼吸窮迫症候群(ARDS)のため亡くなる

今回は、勘三郎さんの闘病131日間を記録した、ドキュメンタリー映像です。

そこには、日本の伝統芸能を背負う歌舞伎役者、中村勘三郎としての姿と波野家の父、波野哲明さんの姿が描きだされています。

亡くなる直前、勘三郎さんは、呼吸器を外し残った力を振り絞って「最期の言葉」を家族につたえたそうです。

その言葉とは、ある歌舞伎演目のセリフだったそうです。血筋と芸と技の中で生き抜いた、世界に誇る名役者の生きざまの記録です。

「今まで大切に生きてこなかったわけではないけど、戻ってきたらもっと大切に生きていくだろうね・・」勘三郎さんが、手術前の語った言葉です。

手術を7月に終え、これから回復という矢先の8月、誤嚥による重症の肺炎を起こしてしまいました。

勘三郎さんは、人工呼吸器をつけるため、役者の命である音声を失いました。奥さんは、その手術をするための同意書にサインはできず、長男の勘九郎さんがサインしました。

9月になり、さらに病状が悪化したため人工肺、エクモECMOをつけざるを得なくなりました。それが仇となり、勘三郎さんは自発呼吸ができなくなってしまったそうです。

そして、亡くなるまで勘三郎さんは、家族、看護婦さん医師者さん、すべての人に「ありがとう、ありがとう」と言い続けていたそうです。

家族は、「最後に父の声が聞きたい」と頼みました。そして勘三郎さんが発した最後の言葉は、歌舞伎の菅原伝授手習鑑 寺子屋松王丸の笑い、泣きのセリフを演じたのでした。

人生の最後まで、人を楽しませる勘三郎さんに役者魂を見ました。

最後に脳内出血を起こし、好江さんとの32回目の結婚記念日を終え、2012年12月5日旅立っていきました。

20年にわたる勘三郎さんのドキュメンタリー『映画 中村勘三郎』が東京銀座 東劇で平成25年12月21日(土)~1月10日(金)に上演されます。