米米クラブ、スケール感のある歌と華やかな舞台のグループでファンを魅了するグループです。

「浪漫飛行」が大ヒットし、「君がいるだけで」は、289万の売上げました。今でも多くの人に愛されて歌われていますよね。

浪漫飛行

そのリーダーでボーカルが石井竜也さんです。

今回石井竜也さんのファミリーを調べてみたら、芸術、芸能界などに対する先祖の思いがたくさんありました。

NHKファミリーヒストリーでは、そんな石井竜也さんのルーツに迫りました。

実家は茨城県北茨城市の和菓子屋さん

石井竜也さんは、昭和34年9月22日、茨城県北茨木市大津町に生まれました。

大津町は福島県との県境にあり、岡倉天心の日本美術院があった五浦海岸のすぐ近くにあります。

石井さんの実家は、大津の地で91年続いた和菓子屋さんです。

竜也さんは、その長男に生まれましたので、将来跡取りを期待されていた存在でした。

しかし、竜也さんと妹の美奈子さんが、米米クラブとなってしまったため後継ぎはおらず、お店は平成17年お店は閉鎖されてしまいました。

石井家の先祖は名字帯刀を許された庄屋さん

石井家のルーツをたどってみますと、4代前には福島県矢祭町にいたことがわかりました。

4代前の長左エ門さんは、江戸末期年貢米を集めていた「名主」で苗字帯刀を許されていたそうです。

長左エ門さんの次男として生まれた靏次さん(竜也さんの曽祖父)は、文学や芸術の道に進みたかったそうです。

19歳のときには、福島県湯本にある私塾で学びますが、体を壊してしまいます。

大正3年曽祖父が始めた和菓子屋

靏次さんは結婚後、家をでて茨城県大津町に移り住み、大正3年和菓子屋を始めます。

売っていたのは「らくがん」。和菓子屋がなかったことから大繁盛します。

長男友則さん(竜也さんの祖父)が生まれ、和菓子屋の跡取りとして育ちましたが、友則さんは画家になりたかったそうです。

しかし、画家になることは許されず、和菓子屋の2代目を継ぎます。

そして、3代目となる長男昭雄さん(竜也さんの父)が生まれます。

父は東宝ニューフェイスで俳優を目指していた

昭雄さんは、絵が好きで和菓子屋には興味がありませんでした。

東京で勉強をしたいという昭雄さんに、父友則さんは和菓子屋の跡を継ぐことを条件に、早稲田大学第二商学部への入学を許します。

しかし、東京にでた昭雄さんは映画にのめりこみ、学校を中退し俳優になることを目指します。

東宝、東映、大映のニューフェイスを受け、東宝での審査では宝田明さんと敗れて俳優になれなかったそうです。

昭雄さんは実家から呼び戻され、しぶしぶ家業の手伝いを始め、妻となる鈴木光子さん(竜也さんの母)と結婚します。

母方の先祖は「超高速参勤交代」の武士

鈴木家のルーツをたどったところ、鈴木家は「超高速参勤交代」の湯長谷藩(福島県いわき市)の江戸詰め武士だったことがわかりました。

そして、昭和34年に長男として生まれたのが竜也さんです。

竜也さんの才能を見抜きいつも支えてくれた父

竜也さんは、小さいころは人見知りで、誰かがくると押し入れの中に入ってしまうようなおとなしい子供でした。

絵が大好きで、毎日のように絵をかいていて、将来は美術学校に進むことを希望していました。

父昭雄さんは、そんな竜也さんの才能を認め気持ちよく東京に送り出してくれました。

竜也さんの妹であるでる美奈子さんも、また兄を追って東京へと家をでていきました。

2人が東京にでていた昭和50年頃、洋菓子ブームや近くに大きなスーパーができ和菓子屋の経営はかなり苦しかったそうです。

そんな中でも2人の夢を支えるため、売上げ金の1000円札を30枚、40枚とまとめ、書留で送り続けてくれたそうです。

妹の美奈子さんは、そんなお金を見て郵便局で「もうこれ以上仕送りはいただきません」と泣いたそうです。

美術学校の仲間と米米クラブを結成

竜也さんは、美術学校を卒業し学校の仲間に妹の美奈子さんを加え米米クラブを結成します。

その変わったバンド名を聞いた、祖父友則さんは、「米を制するものは世界を制する」と言って喜んだそうです。

米米クラブは、スターダムを一気に駆け上がっていきました。

今回、自分のルーツを知った竜也さんは、「みんなの思いや人生がパズルのように集まって自分の肖像画ができているんだな・・」と、しみじみと話していました。

石井家は代々、芸術家になることを希望していたけど、夢がかなわなかった人がたくさんいました。

竜也さんが、歌、ファッション、デザイン、映画など、先祖の夢をすべて抱えて人生を歩んでくれたんですね。

本当に、人の人生には、先祖から引き継いだ運命がぎっしりと詰まっているような気がします。