今、最も旬な人、又吉直樹さん(35歳)。ピースのボケ担当として独自の雰囲気で人気を得る一方、芸能界でも有数の読書家として知られています。

芸能活動の傍らコラムなどをの文筆業もこなし、はじめて書いた小説『火花』がなんと芥川賞を授賞。今後の動向が注目されている人です。

ハワイ

今回は、そんな又吉さんのファミリーヒストリーが紹介されました。

又吉さんは、1980年、父已敏さん、母みよ子さんの長男として大阪府寝屋川市に生まれました。3人兄弟で、4歳と3歳上にお姉さんがいます。

父は已敏さんは沖縄県、母みよ子さんは奄美群島の加計呂麻島(かけろまとう)の出身です。

又吉さんの祖父は宝善さん、祖母は千代さんになります。

宝善さんは戦前ハワイで生活していたそうですが、その時の生活について本人はほとんど話さなかったため家族でも知らないそうです。

そのヒストリーをハワイにたどってみると、祖父又吉宝善さんの波乱に満ちた人生がわかりました。

祖父又吉宝善さんは、1870年(明治40年)沖縄で生まれます。

その頃ハワイでは、サトウキビ畑や製糖工場で働く労働者を確保するため、いろいろな国から移民を受け入れていました。

沖縄からは、ハワイへ約2万人の移民がおり、祖父宝善さんの父、寳藏さんもハワイへ出稼ぎにでていました。

そんなことから、宝善さんも父を頼り1924年(大正13年)16歳でハワイに渡り、ハワイ島ヒロのさとうきびプランテーションで働き始めます。

ハワイでは昼夜を問わない厳しい労働に加え、白人からばかりでなく、沖縄言葉のため日系人からも差別を受けました。

やがて宝善さんは、ハワイ島さとうきびプランテーションをやめ、ホノルルで働く兄の寳傳さんの小さなレストランで働くことになります。

そして現地で米国人と結婚、子供エミ子を儲けますが2歳で亡くなってしまいます。そして5年後には、頼りにしていた兄の寳傳さんも35歳で亡くなってしまいます。

兄の死後、マウイ島に渡り日系人経営のパン屋「ナシワベーカリー」に住み込みで働きお金をためて帰国費用をつくり、1941年(昭和16年)真珠湾攻撃の半年前に沖縄に戻ります。

宝善さんが33歳のとき、17年ぶりの帰国でした。

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沖縄に戻って二年後に、隣村の13歳下の娘千代(又吉さんの祖母)さんと結婚し、一年後長男宝定さんが産まれます。

しかし、長男が生まれて3ヶ月後、戦況が悪化し1945年3月に招集されます。

宝善さんは、沖縄本島の西に浮かぶ伊江島の工兵隊として配属されますが、やがて追い詰められ地下壕に潜むことになります。

米軍の激しい攻撃で仲間たちが次々と死んでいくなか、宝善さんたちの豪にも米兵がやってきます。

宝善さんは英語ができたため、米兵の呼びかけを理解し、豪にいる人を説得し投降を受け入れます。そして、終戦。

生き残った人たちは、自決しないですんだのは宝善さんのお陰と、お礼をいいにきたそうです。

せっかく戦争が終わって帰ってきた我が家には、長男の姿はありませんでした。ウミがおでこにでき亡くなっていたそうです。

戦後、宝善さんは英語力を活かして、家族と離れて米軍基地でコックとして働きますが、待望の長女が誕生したのを機に農業に転身し、娘5人息子2人を儲けます。

又吉さんの父、已敏さんは、8人兄弟の5番目の二男として産まれました。

宝善さんは、7人の家族、18人の孫、13人のひ孫に囲まれ、貧しいながらも幸せな生活を送り1981年に75歳で亡くなります。

宝善さんは、どんなに貧しくても人を大切にし、困っている人を助ける方だったようです。

祖母の千代さんに思い出を聞くと、晩酌は毎日コップ一杯・・とっても良い人だったと、今でも涙ぐみます。

実は、又吉さんは祖父宝善さんに一度だけ会ったことがあるそうです。でも、又吉さん1歳2ヶ月の時だったそうです。

宝善さんはそのとき病にありましたが、長男ができたということですごく喜んでいたそうです。その4ヶ月後、宝善さんは亡くなりました。

今天国にいる宝善さん、又吉さんの活躍と芥川賞の授賞、本当に喜んでいるでしょうね。