デヴィ・スカルノさん、通称デヴィ夫人は、1940年生まれですから今年74歳。最近はバラエティで、出川さんと楽しそうに絡んでますよね。

水着になったり、スカイダイビングをしたり、あのパワーはどこからでてくるのでしょうか。

バリ島

日本で暮らしていた根本 七保子さん時代から大統領夫人にまで登りつめた人生を見ると、彼女に備わった天性のエネルギーを感じますよね。

デヴィ夫人の経歴(参照ウィキペディア)
①1940年(昭和15年)東京都麻布で生まれる
②父は大工さんで多額の借金。弟1人。
③15歳で映画のエキストラ出演

④家計を助けるため定時制高校を中退
⑤赤坂高級クラブ「コパカバーナ」に勤める
⑥1959年、インドネシア・スカルノ大統領のもとに

⑦1962年 スカルノ大統領と正式結婚第3夫人になる
⑧1965年 軍事クーデターでスカルノ大統領失脚
⑨1967年 娘カリナさんを東京で出産
⑩1970年 スカルノ氏死去
以降、スイス、インドネシア、ニューヨークと移住し日本へ。

自力で、底辺から世界のトップ夫人に登りつめ、そして74歳になった今もなお、芸能界で輝き続けているデヴィ夫人。

輝かしい表人生の陰で、もう一つの壮絶なドラマがあったようです。

デヴィ夫人の壮絶人生 キンスマ

デヴィ夫人は、いつの日も注目され、そして夫人の周りには謎と誤解がついてまわります。

デヴィ夫人は、家が貧しかったため中学を卒業して千代田生命で勤めはじめます。

仕事のほかに、喫茶店でアルバイトをして家族を支えてました。そこに第一の運命の人、米国宝石商ジミーが現れます。

デヴィ夫人は、彼に気に入られ、当時の超高級クラブである「赤坂コパカバーナ」に出入りするようになります。

そこはまさしく世界の社交場です。そこでコパカバーナのオーナー長尾久子さんに出会い、17歳でコパカバーナで働き始めます。

18歳のとき、インドネシアで仕事をする日本人の紹介で訪日していた、スカルノ大統領とはじめて会うことになります。

スカルノ大統領はひと目ぼれし、母国に帰るなり熱烈なラブレターを送り、結婚することになります。

デヴィ夫人の最大の後悔は、日本にいるお母さんが週刊誌に追われ、日々の心労で倒れてしまったこと。

危篤の知らせがきて日本に戻って40日後、最愛のお母さんは亡くなってしまいます。

その2日後、今度は、当時騙され借金を抱えていた弟がガス自殺をしてしまいます。弟さんは、デヴィ夫人に迷惑がかからないようにと警察にも相談できず一人で悩んでいたそうです。

デヴィ夫人はインドネシアに戻り、宮殿に弟さんの名前「やそお」をつけたそうです。

デヴィ夫人は、永遠にこの2つの出来事を自分の十字架として背負って生きているそうです。

結婚して7年目、大統領の子を身ごもり、出産のため日本に戻っているときクーデーターでスカルト政権が崩壊してしまいます。

夫人の運命は大きく変化していきます。その後大統領が亡くなりインドネシアにはいられなくなり、夫人はパリへ渡ります。

その時デヴィ夫人30歳。パリでは、スペインの銀行家や、ルイ14世の家系の男爵と恋に落ちますが、いずれも実らぬ恋でした。

デヴィ夫人は、その後インドネシアに戻り、石油、ガス、建設などの事業で成功を収めます。

当時、デヴィ夫人はニューヨークの社交界で「東洋の真珠」と謳われていたそうです。2000年頃には、日本のテレビ番組にもでるようになります。

デヴィ夫人は、「私のラッキーと言えることは戦争と貧しさの経験があるところ。私は人の3倍勉強して、人の3倍働いて人の3倍努力して、人の3分の1の睡眠で生きてきました。」

「私にとって人生は戦場。その戦場の一人の戦士と自分をなぞらえています」と語ります。

現在、デヴィ夫人は、慈善団体の会長、世界のボランティア活動、チャリティイベントの開催、音楽財団の名誉会長など努めています。

いつも新しいことに挑戦して、アクティブでかわいくて、生き様がすごくて、かっこいい女性・・。それが、デヴィ夫人なんですね。

デヴィ夫人は、今でもインドネシアへ行けば国賓待遇の人。自分の生き方をまっすぐに貫くデヴィ夫人、すごい方ですよね~。